2017年11月05日

現在考@ 日々思うところを書き残すようにしていこうかと


最近、時代の大きなうねりを感じて日々思うところが増えて来たので、たまにエッセイや考察としてブログに残してゆくことにしました。
そのうち、専用のブログを立てて移行するかもしれませんが。

【季節風大会 絵本、児童文学、短歌の批評文化の異なり】
児童文学の同人「季節風」の大会に参加し、感想を寄稿する役を仰せつかり、自分が足場を置く、絵本、児童文学、短歌のそれぞれのジャンル毎の批評文化について少々書かせていただきました。(掲載は来年かな?)

以下はその流れで、近ごろ思うところについてと、つづけて、感想文の一部抜粋です。

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現在の世について個人的に思うことはあふれるようにある。
そのひとつ、法律について。
まず、私たち人間の大部分は「法律」というものを、本来あるべき運用法とまったく逆の運用をしていると思う。
法律(ことに犯罪にかかる法律)とは本来、「罪を犯した者を罰するシステム」としてではなく、「罪を犯した者を許してゆく課程のシステム」として運用されるべきなのだ。
そうすれば、「罪」というものや「被害」というものの概念そのものが現在とはまったく異なるものになり、反転した世界像が現れる。
犯罪や戦争などの他害の様相が大幅に変化するはずだ。

しかし、上記の法律の例のように、旧来式のシステムの欠陥を見破り、概念を転覆させ、反転世界を現実に構築してゆける者は、「これから生まれるこどもたち」の中にしか現れない。
(そしてこれまでは、太古の歴史や一部の民族、ファンタジー文学など仮想世界や理想の中にしか顕現していなかった)
「これから生まれるこどもたち」は、私たちの目が急速に開かれてゆくような「本来的であり、かつ、エポックメイクに映る概念」を提示してくれる存在だ。

このような、これまで人類がその史上に積みあげた「まちがいレンガ」を取りのぞき、「反転世界」を構築、運用していく世代を迎えること、現在の世からは「逸脱した思考や行動をする存在」とみなされる「新しいこどもたち」の道行きを支え、道程の地ならしすることが、今を生き、かつ、表現の分野に携わる者の仕事になってくるだろうと考える。

「こどもは真っ白なキャンバスである」という考えは誤っている。
パウル・クレーが言うところの「死者と胎児の間の世界」から現れる赤ん坊は、無数の「智慧」と「情報更新の可能性」を携えて世に現れる。
それを社会幻想に漬け込んで崩壊させてきたのが、これまでのおとな達だ。
「こどもの本の仕事」とは、このおとな達の、目を覆いたくなるような無惨な無理解に対する懺悔の表明ですらあるといっていい。

出版システムそのものは、社会の変動に合わせて今後大激変を迎えると思うけれど、「表現」に携わる者の果たす役割は本質的には変わらない。
そして、「そのように感じ、考える者」と、旧来式のシステムと商業主義の中に居続けようとする者との極分化は、緩慢に来るというよりも、短期的な大波を体験することによって訪れると予期する。


さて、以下は「季節風」に寄せた感想文の一部抜粋。
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 批評精神や批評文化には、こういった「時代の大波」を「個=作家、あるいは作家たち」が、いかに乗りこなしたか、当人が生きた時代のなにを見破り、どのような新機軸をうち立て、どのように真実の一端を述べたかを見通す力を有します。優れた批評家は、作家や作品に対する情熱的な愛(批判もまた愛)を燃料にして、鋭い洞察力とロジカルな思考力、美しい文体を駆使しながら、時代と個人を見通し、後代に受け継ぐ仕事を果たします。
 今回、「名無し分科会」に参加させていただいて感じたことは、政治、生活、文化のあらゆる面で大変化の大波を目前に控えているだろう「今」という時代にあって、作家自身が同時代の作品を批評的に考察する力を養うことや、ときに評論という形で後に残る仕事を果たしていくこと(これについて短歌の批評文化は少々参考になるかもしれません)、また、評論の場自体を活性させることなどが、重要になってきているのかもしれないということでした。

「今」という時代の私たちは、過去の歴史の大きなうねりをふりかえっても尚、さらに大きなものとなるかもしれない「大変化」の、前夜のような時を過ごしているといっても過言ではないと、私自身は強く感じています。

 
posted by 草子 at 01:57| 表現、その他についての考察