2020年04月12日

巡る



果実は、自然に熟さなければ落ちることができない。

樹木は、晴れの日も雨の日も、ただそこに在る。

樹木は、嵐を受けて、踏ん張って倒れずにいることもあるが、風雨の流れのままに倒れることもある。

いずれの状態も自然であり、それはただ、起きるから起きる、というだけである。

倒れた樹木と、倒れない樹木は、まったく等価である。

ただ、そうであるからそうであったと、樹木は知っている。




人間の認識も、果実や樹木と同じく、まったく自然に沿って流れている。

自らの在り方が、いついかなる時も自然であることを、「知らずにいる状態」と、「知っている状態」があるだけだ。

そしてその状態のいずれもが、自然である。

果実は、自然に熟さなければ落ちることができない。

同様に、人間の「認識」は、それが理解されたときに、はじめて認識される。

「ああ、そうか」

ある日、つぶやく。

そして、ただ、知るのである。




「理解」は、自然に訪れるときにしか訪れない。

反発も悲しみも不安も恐れも苦悩も耐えることも怒りも、自然に起こる。

また、静寂も平穏も歓喜も幸福も理解も看破も、自然に起こる。

葛藤し悩み慟哭するのも人間らしさであれば、苦悩の正体を見破り、絶対の平和の地帯を目撃するのもまた、人間らしさのひとつに過ぎない。

人間らしさとは、人間の活動の様態のすべてに宿っており、かつ、人間は自然の一部であると同時に、自然そのものである。

いかなる精神の状態も自然に発生する。

そして、はじめから何も失っていない生命を、やがて発見する。

到達して発見し、再び見失い、途上へと戻ることを繰り返す。

やがては、永遠の静寂を知ることとなる。

けれどもまた、ただ自らの命を使い、そこに居ること、在ることが、それだけで自然であり完全の価値を持つことを「知る」状態にありながら、再び歩きだす。

果実がそうであるように。

樹木がそうであるように。

到達し、再び、始めの状態に還るのだ。

そして巡る。




あらゆる状態は、途上である。

完成形は存在しない。

そしてまた、完成していない途上の状態は、すでに完全である。

巡る状態が、そのまま自然に、ここに在る。



 

 
タグ:自然 言葉
posted by 草子 at 21:39| その他お知らせ