2018年04月05日

私の絵本論@ 絵本は親子のコミュニケーションツールである、という考えについて

「絵本は親子の(大人とこどもの)コミュニケーションツールです」といった文言を見かけるたびに、私は「そんなバカな!」と思う。
この断言の中には、「こども」という存在が元来そなえている感受の能力の、その圧倒性を見損なっている態度を感じ、見るたび、胸がわななく心地がするのだ。「そんなバカな!」と。
少なくとも「そのようでもあれる」と述べるなら分かるが、こういう断定がまん延することを、一作家として見過ごせないように思う。

自分自身が幼子であったときの絵本との時間を、私は鮮明に憶えているけれど、絵本であれ、それ以外のどのような現象であれ、「そこにある世界」と「一対一」の出会いをし、その世界を受けとるとき、私は、たった3歳や5歳であっても(いや、3歳や5歳だからこそ)、大人たちによる介助や介入など、いっさい必要としなかった。
たしかに私は小さい肉体、小さい指しか持たなかったが、しかしその何十倍も大きく、かつ純粋度の高い心と魂をそなえていたので、たったひとりで、「そこに在るもの」を十全に味わうことができた。
大人の介入は、多くの場合、第一の「世界」との出会いにおいて、邪魔である。
なぜなら、「そこにある世界をそのまままるごと受けとめ、感じる」という能力において、ほとんどの大人は、決定的に「こども」という存在よりも劣るからだ。

大人は、この世界の万象と出会うこどもに、すぐに言う。
「あれは花だよ。○○という名前だよ」
「これは車だよ。走るんだよ」
(このようなことを、私自身、よくやってしまう)

私を含め、大多数の大人は「名づけ、分類、定義の世界」にどっぷり浸りきって生きてしまっている。
そのために大人は、「存在が、ただそこに在ること」「現象が、ただそのようであること」という、「ただ、在る」という状態に長く耐えようとしないのだ。
しかし、こどもは違う。
こども時代の私たち人間は、「花が、ただそこに在る」という、まじり気のない現象を、まったく純粋度を失わずに全身で受けとめることができる。
この神聖な能力は、すべての人間が携えて世に現れるが、それを、さまざまな「よかれ」の洗脳に後押しされて、「教育」「情操育成」などの文言を旗印にして、せっせと潰しにかかるのが、大人たちであり、社会である。

もちろん、たとえば花を見るときに、ひとりで見るのではなく、ふたりや複数で見ればこそ素晴らしい時間が得られる、という事実は充分理解しているし、絵本を媒体とした親子のコミュニケーションは、この「ふたりで花を見ること」と近い幸福な効果を生むだろうとは思う。
その部分を否定しようとは、まったく思わない。

それでも、人間がただの「ひとつの現象」として、同様に「ひとつの現象」である野の花と、一対一のまじり気のない出会いや対話をするとき、その花は、この世界に関する言語化しようもない圧倒的な「真なるもの」を伝えてくれる、あの他ととりかえのできない幸福な状態を、大人のみなさん、あなたがたはご存知ではないのですか?
そう問いたくなるのだ。

ひとつの花とひとり向きあうとき、空の星々とひとり向きあうときの、あの圧倒性のことを、私たちはみな心のどこかで知っているし、あの確かさを信じているではなかったのか。

我ながら残念だけれど、私自身、この「感性を鈍らせた大人」の一員だ。
しかし、その自覚があるからこそ、罪悪感に苛まれる。
絵本作家とかいったものの末端に並ぶというのに、「こども」という存在に方向づけをし、意のままに動かそうという大人たちの「意図」が滲む行為に、抵抗しなくていいのだろうか? と。

「コミュニケーションツールです」と言いたがるのは、大人の側のさまざまな自己都合の弁明を内包する言葉であって、純粋度の高い「こどもという存在の欲求」の核を突いているとは言えないと思う。
にも関わらず、この「親子のコミュニケーションツールである」という言葉は、商業主義の大通りで市民権を得て、我が者顔でのし歩く。
まるで新しく親となった人たちに、「絵本をこどもと読めば、良好な親子関係が築けますよ」とでも耳打ちし、薬の効能でもうたうかのように!

私は「コミュニケーションツール」を創っているのではないし、創りたいのではない。
私は「世界との対面の瞬間」を創りたいのだ。
そして「絵本」という表現は、「大人がこどもに楽しめる何かを与えてあげる」ための表現では、絶対にない、と思っている。

絵本の創造とは、大人という、社会に手なづけられてポンコツに錆びた存在が、「こども」という「世界についての優れた感受装置」としての圧倒的な存在の内に分け入り分け入りし、「完全であった状態」に帰還しようと試みる行為である。
堕落した大人は、こども性に帰還し、あの「全き万象」のことを思い出す必要がある。
少なくとも私にとっては、そのチャレンジが絵本という表現をやろうという動機であり、意欲の源泉となっている。

そして私たち人間は、「こども性」に帰還するという道をたどることで、「人間が、人類史においてどのような間違いを犯して来たのか」をたどる力をつけることができると考えている。
なぜなら、生まれたばかりのこどもは、いっさいの間違いを携えることなく、世に現れるからだ。

あの「真なる存在」への帰還を、創造という行為を通して、何度も何度も試みる必要がある。
そうでないと、私たちは「間違いを犯しつづける世界像」から、いつまでも脱却できない。
戦争や犯罪や差別が充満する世界を構築してしまった人間の、その過ちの解明に至れない。

絵本とは、人間の「帰還」のための、頼りなくもか細い、しかし必死の方法論のひとつだと考えている。
絵本に大きな力はない。
けれど、なけなしの努力やあがきは無駄にはならない。
どれほど少しずつであろうと、「人間の帰還の道」を、私は繋げていくつもりで創作をやろうと思っている。
タグ:絵本 絵本論
posted by 草子 at 18:28| 表現、その他についての考察

2018年02月10日

現在考C【大樹の声〜それから】

大樹の声を聞き、昨年末に書いたこと、想定していたことが、年をまたいで早々に現れて来ている。
(この件は、もう少し踏みこんだ詳細は別所に記している)
昨年に見つめてきたことと同じような構造、同じようなパーソナリティが、現在世情に浮かんでいる。
けれど、出来事の根本に横たわるのは、パーソナルな問題ではない。
「構造」の膿が表面化しているに過ぎないのだ。

具現化のスピードがかなり早くなっており、時代の開演を実感する。
さまざまな事がスピーディに展開している。
起きるだろうと直感したことが概ね起きるようになっており、もはや口にすることができない。
私の周囲にいる人の中には、このような出来事を実際に体験している人もあるので、分かってくれる人も少数ながらいるはずと思う。
それらはすべて、シグナルとして起きている。

もちろん、理解者を求めることはしない。人はただ、それぞれ一個の旅人なのであるから、なにを信じなにを理解するかの自由意志は、絶対的に尊重されている。

大樹は語っていた。
「気づかなければいけない」
「止めなければいけない」
「思い出しなさい」

あのとき知覚した出来事は、避けがたく起きるのかもしれない。
もしそうであるなら、個々の人間が、「その根にあるもの」にひとつひとつ気づいていく以外に救済の道はないと思う。
「何があの木をあそこに立たせたのか」
そこを深く見つめ、問うことに集約されている。

現在、問題化して炙り出されているようなことや、「あの大樹」が象徴となり得るような出来事は、この2〜3年ほどであちこちから現れて来る。
それらの問題は、それぞれの人に「生き方」「在り方」について、真を問うこととなっていく。

当事者に罪があるという訳ではない。
というよりも、当事者の罪として考察するだけでは、あまりに不十分なのである。

多くの人が、社会幻想にとらわれ、共犯者的に構築してきた「構造体」の欠陥が、顕わになってきているということだ。
私たちは、精神性や表現の真実、自然との調和の態度をかななぐり捨てて経済を追い、意識高々とよく考えているふりを装いながら、しかし極めて無思考に、虚構の塔を建ててきた。

その虚ろな建造物の倒壊に立ち会うことは、当然のつとめともいえるのだろうと思う。
 
posted by 草子 at 04:07| 表現、その他についての考察

2018年01月01日

2018冒険元年、新しい船「地球、おもしろすぎる」号にのる

明けましておめでとうございます。
2018年の元旦は生まれて初めて海からのぼる初日の出を見ました。
燃える大きな太陽と七色に光る海。
地球の威力と神秘を感じて感動しました。
2017年もめくるめくようなワンダーすぎる一年でしたが、2018年はさらにハイパーな始まりとなりました。

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今年はさまざまな事が怒濤のように生じ、走り飛び踊りまわる年になります。
冒険の船を、いよいよ港から出発させる年になります。

地球上のあらゆるものを見て、感じて、この世で出会えた各地に生きる仲間たちと共に、個々の個性を存分に輝かせながら、共創的に、オーケストラの合奏のように、地球を美しくし、他者を助け、平和を創る活動を果たしてゆきます。
今、仲間たちとどんどん出会い、繋がり、お互いを励まし盛り立てあっていることを強く感じています。

Tutti!
この言葉を、夢を通じて私に教えてくれたのは、サン=テグジュペリでした。
「憶えておきなさい。必ずそうなるから」
そう繰り返し言われ、頭に叩きこまれました。
初めて知る言葉でしたが、目覚めてから調べてみると、イタリア語の音楽用語で、「全奏」という意味だと分かりました。
「すべての奏者が同時に音楽を奏でる」という意味です。
この「Tutti!」を、出会った人すべてと、やがて果たしてゆくことになるのだと。

サン=テグジュペリはフランス人ですが、なぜかイタリア語の音楽用語で教えてくれました。
(耳残りする短い単語なのでバカな私でもこれなら憶えられるだろうと考えたのでしょう)
(ちなみに夢でサン=テグジュペリに会ったときは、彼だと理解するまで「誰? この鼻たっかい人相の悪いおっちゃん」と思ってました)
(ついでに私は、サン=テグジュペリの人相が、案外悪人顔に見えるのが昔からとても好きでした)

個人的な仕事としては、これから日本や世界のあちこちを巡り、出会い、探索し、研究し、感じ、考えたこと、そして思い出した数々を、やがて大きな絵物語として、タペストリーを織るごとく編み上げてゆくことになります。

それを果たすことを目的のひとつとして私は生まれました。
絵だけではなく、短歌や文筆を学ばされて来たのも、自然科学に出会ったことも、今のアトリエを与えられたのも、多くの人との出会いも、すべてはそこへ繋がってゆくのだと知らされています。
私の全霊に埋まる「記憶の種」を掘り起こすための旅に出航します。
まずは今年はサマルカンドから!

地球上で出会えたすべての皆さまに深い感謝を。

すべての人の真実の個性が輝きわたる世界にて、お会いできますと幸いです。
posted by 草子 at 11:11| 表現、その他についての考察

2017年12月29日

現在考B【樹木から教えられたこと:大波の越え方】

これからますます激動の時代となるけれど、といって、もはやニュースを見て一喜一憂する必要はかえって無くなっていくと思う。
なぜなら、国内のものであれ海外のものであれ、メディアにも知識人といわれる人々の口にも、もはや真実はのぼらなくなるからだ。
それどころか、かえってこれらの場では、いまだ「諸論」があるかのような装いが蔓延してゆくだろうと思う。

古い構造体の洗脳から目を覚まさない場合、「諸論」の装いに振り回されつづけることとなり、不安や恐れや絶望ばかり口にしながら歩むこととなる。
不安や恐れは、道を誤る最大の要因。
人々の視界を遮る濃霧となる。

それよりも、「自己」というアンテナを高高度にかかげ、その広い視野に行く先のナビゲートを託す方がずっと安全だ。
「天意の采配に自己を明け渡す」といっても良いかもしれない。
「天」は恐るべき完璧さで「個」をあるべきように動かす。
そして、天とは自己そのものなのだ。

高高度のアンテナに託せば託すほど、必要なときに必要な方角から、「これは」と思う情報が必ずもたらされる。
それらの情報は、すべての人に個人仕様にしつらえられているため、どれほど遠回りに見えようと、結果、最短かつ最も安全な道が選ばれていたことを、後になって知ることとなる。

「安全な道」は、ときに苦難に見えることもあるかもしれない。
例えば現在では、その類の苦難を、リストラ、退職、倒産、転職などの仕事環境の失敗や変化、抑鬱や身体的な病気、離婚などの様々な「苦」としか思えない出来事として味わうこととなり、人生のターニングポイントを迎えている人々も多くいる。

けれど、一見「弱者」となって転落を見たかに思えるその苦難が、実は「後に来るもっと大きな苦難」から救済されるための道であったと知る人は多い。

「天は自らを助くるものを助く」

「自己の真実の心」を一心に信じ「本来の自己」に背かない者だけが、アンテナを高高度にかかげる方法を見いだす。

生まれたときから、ずっと共にあった「自己」と、今こそ強く手を結ぶ必要があると思う。
もはや誤った世界が見せる混乱した情報に振り回されている時ではない。

「もっとも正確な筋書き」を持っているはずの「自己」は、すべての人にとって、生まれたときからずっといちばん近くにあったものなのである。 

 
posted by 草子 at 19:48| 表現、その他についての考察

2017年12月27日

現在考A【樹木から教えられたこと:新しい船に関する現代の神話】

切り倒された大樹は、大規模にも中規模にも小規模にも、むこう10年はいかない程度の未来に関する資料集のように機能し、海際に立っていた。

現代の神話

旧時代の構造体が「幻想」として虚実をとり混ぜて練りあげてきた「見かけ上の名誉、名声、栄光、功績、成功、権威」などについて。
これらのものは、この数年の間に次々その実態を露呈させ、倒壊してゆく。
「暴かれたもの」の中には、未だ古い構造体の残存エネルギーによって辛うじて立っているものもあるが、それもこの数年で倒れ、流される。
もともと幻であった名声や功績は、幻らしくあとかたもなく消える。そして未来に何をも残さず終わることとなる。
怒濤といってよいスピードで訪れるそれらの現象を、私たちはこれからおおいに目撃する。

「古い構造体」が見せる幻想への執着を捨てられない人々は、重い衣を脱ぐことが出来ないばかりか、さらに重ねて衣を着、そのうえ重い荷物まで担ごうとする。
「溜め込んだ荷物によってしか救われない」「持っている荷の重さで価値が決まる」という幻想から目を覚まさないためだ。
持ち物が重いほど動きが遅くなることに気づく人と、そうではない人に分かれてゆく。

そして、「古い価値」を燃料にして動く「古い構造体」の船は、重い衣をまとった動きの遅い人々を、つぎつぎと飲み込んでゆく。
ひととき、多くを飲みこんだ「古い構造体」の船は、得体が知れないほど巨大な姿となり、権勢を誇るかのように見えるだろう。
しかし、ふくれるだけふくれた「古い構造体」の船は、やがてその自重のために海へと沈むこととなる。

「新しい価値」で動く船は、重い衣や重い荷物を捨て去った人々が乗る船である。
それは軽く速く、空を疾駆する船となる。
「古い価値」で動く船は、「新しい価値」で動く船をも飲みこもうと必死で追うが、重い船が、すみやかに空へのぼる軽い船に追いつくことは決してない。

ひとびとを「新しい価値」で動く船に案内すべく、真実の光の仕事に携わるものたちがいる。
そのものたちは、大樹が土中にめぐらした根と、その間を行き来する菌糸のネットワークによって、強固に繋がりはじめている。
地下にて育つ光たちは、互いを助け、歌を鳴き交わすように情報を交換しあい、やがて大地に無数の光の柱を立てるため、今という時を生きている。

元来、信じるべきは「自己」という高感度のナビゲーションシステムのみであった。
自己の内側にある光の中にこそ真実がある。

私たちは、光を目撃するためにこの地上に降りたことを、今やはっきりと思い出そうとしている。

posted by 草子 at 00:00| 表現、その他についての考察

2017年11月05日

現在考@ 日々思うところを書き残すようにしていこうかと


最近、時代の大きなうねりを感じて日々思うところが増えて来たので、たまにエッセイや考察としてブログに残してゆくことにしました。
そのうち、専用のブログを立てて移行するかもしれませんが。

【季節風大会 絵本、児童文学、短歌の批評文化の異なり】
児童文学の同人「季節風」の大会に参加し、感想を寄稿する役を仰せつかり、自分が足場を置く、絵本、児童文学、短歌のそれぞれのジャンル毎の批評文化について少々書かせていただきました。(掲載は来年かな?)

以下はその流れで、近ごろ思うところについてと、つづけて、感想文の一部抜粋です。

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現在の世について個人的に思うことはあふれるようにある。
そのひとつ、法律について。
まず、私たち人間の大部分は「法律」というものを、本来あるべき運用法とまったく逆の運用をしていると思う。
法律(ことに犯罪にかかる法律)とは本来、「罪を犯した者を罰するシステム」としてではなく、「罪を犯した者を許してゆく課程のシステム」として運用されるべきなのだ。
そうすれば、「罪」というものや「被害」というものの概念そのものが現在とはまったく異なるものになり、反転した世界像が現れる。
犯罪や戦争などの他害の様相が大幅に変化するはずだ。

しかし、上記の法律の例のように、旧来式のシステムの欠陥を見破り、概念を転覆させ、反転世界を現実に構築してゆける者は、「これから生まれるこどもたち」の中にしか現れない。
(そしてこれまでは、太古の歴史や一部の民族、ファンタジー文学など仮想世界や理想の中にしか顕現していなかった)
「これから生まれるこどもたち」は、私たちの目が急速に開かれてゆくような「本来的であり、かつ、エポックメイクに映る概念」を提示してくれる存在だ。

このような、これまで人類がその史上に積みあげた「まちがいレンガ」を取りのぞき、「反転世界」を構築、運用していく世代を迎えること、現在の世からは「逸脱した思考や行動をする存在」とみなされる「新しいこどもたち」の道行きを支え、道程の地ならしすることが、今を生き、かつ、表現の分野に携わる者の仕事になってくるだろうと考える。

「こどもは真っ白なキャンバスである」という考えは誤っている。
パウル・クレーが言うところの「死者と胎児の間の世界」から現れる赤ん坊は、無数の「智慧」と「情報更新の可能性」を携えて世に現れる。
それを社会幻想に漬け込んで崩壊させてきたのが、これまでのおとな達だ。
「こどもの本の仕事」とは、このおとな達の、目を覆いたくなるような無惨な無理解に対する懺悔の表明ですらあるといっていい。

出版システムそのものは、社会の変動に合わせて今後大激変を迎えると思うけれど、「表現」に携わる者の果たす役割は本質的には変わらない。
そして、「そのように感じ、考える者」と、旧来式のシステムと商業主義の中に居続けようとする者との極分化は、緩慢に来るというよりも、短期的な大波を体験することによって訪れると予期する。


さて、以下は「季節風」に寄せた感想文の一部抜粋。
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 批評精神や批評文化には、こういった「時代の大波」を「個=作家、あるいは作家たち」が、いかに乗りこなしたか、当人が生きた時代のなにを見破り、どのような新機軸をうち立て、どのように真実の一端を述べたかを見通す力を有します。優れた批評家は、作家や作品に対する情熱的な愛(批判もまた愛)を燃料にして、鋭い洞察力とロジカルな思考力、美しい文体を駆使しながら、時代と個人を見通し、後代に受け継ぐ仕事を果たします。
 今回、「名無し分科会」に参加させていただいて感じたことは、政治、生活、文化のあらゆる面で大変化の大波を目前に控えているだろう「今」という時代にあって、作家自身が同時代の作品を批評的に考察する力を養うことや、ときに評論という形で後に残る仕事を果たしていくこと(これについて短歌の批評文化は少々参考になるかもしれません)、また、評論の場自体を活性させることなどが、重要になってきているのかもしれないということでした。

「今」という時代の私たちは、過去の歴史の大きなうねりをふりかえっても尚、さらに大きなものとなるかもしれない「大変化」の、前夜のような時を過ごしているといっても過言ではないと、私自身は強く感じています。

 
posted by 草子 at 01:57| 表現、その他についての考察